「ノスタルジア」サンプル(冒頭部分)


幽霊屋敷の主人(一)

 

市街地から離れた山間の森の中に、その屋敷はある。人里の喧騒から逃れる様に、ひっそりと建つその屋敷の事を、地元の人間は「幽霊屋敷」と呼んでいた。人が棲むには不便極まりない山の中、モダンな造りの西洋瓦を冠した洋館。木々の緑の合間から、にゅっと伸びた塔の先端だけが見える。

噂では、その屋敷のある一帯の山は私有地で、その建物は地主の別荘だと言われていたが、…それも定かではない。

地主が一体どこの誰なのか、屋敷に人が住んで居るのか居ないのか…誰も知らない。

山の入り口と思しき道の入り口には、そこが私有地だと主張する看板がぽつんと立っているだけで、出入りする者の姿を誰も見た事が無い。

そもそも、その屋敷がいつからそこに在ったのか、誰も知らない。

黒船がやって来て、長年続いた鎖国が終わり、様々な人種や文化が一斉に攻めて来た。国の制度が大きく変わり、人々の生活様式や思想にも多大な影響を及ぼし、今、この国は目まぐるしい過渡期の中にあった。

 

故に、山の中に洋館があってもちっとも不思議な事ではなかったし、そこに住んで居るのが自国民でなかったとしても、きっと誰も驚かない。

だがしかし、噂のネタには丁度良い。

何処の誰が住んで居るのか、何の為に建てられたのか、わからないから「幽霊屋敷」と、そう呼ばれている。

 

 

 

険しい悪路を車で進みながら、やはり馬で来れば良かったと舌打ちをして、雑渡昆奈門は緩めていた襟元を、ハンドルを握っていない方の手で器用に正した。

彼は、これから大事な相手への謁見を控えており、普段着慣れないカッターシャツにネクタイという正装に身を包んで居た。尤も、十年ほど前に負った大怪我のせいで顔の半分に布を巻いた姿では、馬子にも衣装…などというご立派な出来にはならなかったけれど。

 

暫く山道を進んでいくと、袋小路の道の先に、立派な洋館が姿を現した。

遠目で見えて居たのは、ほんの一部だったらしい。想像以上に大きな屋敷に、呆れの様な溜息が思わず零れてしまった。

西洋の様式で建てられた屋敷には、高い塔が二つあり、ひとつはどうやら物見の為のものらしく、市街地を見渡せる位置に大きな窓があり、異様に高い。森に木々の間から覗いて居たのは、この塔の屋根だった様だ。…つまり、塔の主は山の中に身を隠しつつ、意図的に市街地の様子を覗き見ていると言う訳だ。

それにこの立地、屋敷の裏手は崖になっていてまるで崖端城の様だ。悪戯に忍び込もうと不埒な輩がやって来た所で、侵入経路は正面にしか無い。

 

噂には聞いていたが、これから会う相手は相当隙の無い人物の様だ。

ひょんなことから関わり合いになったばかりか、屋敷に招かれてしまった事を、今更ながらに後悔しながら、雑渡は屋敷の外塀と森との間の空間に、車を滑り込ませる様に止めた。

大きな門扉は閉まっていたし、門番らしき人物の姿も見当たらない。どうせ袋小路の道の先、往来の邪魔になることもないだろう。

車を降りて、一度大きく伸びをした後、少しかがんでサイドミラーで髪形や身なりを直し、雑渡は屋敷の門扉へと向かった。

門扉の先、広い庭を挟んで建っている屋敷の様子を伺ってみるが、どうやら声の届く範囲に人の気配は無い様だ。いくらなんでも初めて訪れる場所に、門を勝手に開けて入ってしまうのは気が引けた。自分がここに招かれた理由を考えても、勝手に入って行くのは賢い判断とは言えそうにない。

…約束の時間には、まだ少し余裕があるし、誰かがやってくるまでここで待ちぼうけをするしかなさそうだった。

とはいえ、山奥に一軒だけある屋敷の周囲に、気の利いた喫茶店がある訳じゃなし。ただただぼんやり待ちぼうけ…というのも、なんだか間抜けだが。

 


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