「三反田数馬という人は」サンプル本文より抜粋。

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「明日から、夏休みだねぇ」

終業式を明日に控えて、今学期最後の当番を終えた三反田数馬が、のんびりとした口調でそう言った。

「……実習の準備、しなくて良いんですか?」

そんな数馬に、左近が凛として言い放つ。

最終学年にもなって、大事な実習前だと言うのに緊迫感の欠片も感じられない態度に、卒業した善法寺伊作を思い出す。

彼同様に、不運に憑かれて居る数馬の事だ、行った先で数々の困難に直面するだろう。備えあれば憂いなし、入念に準備するに越した事はないのに、数馬はいつだってこの調子で、左近の言葉に耳を貸さない。

「大丈夫だよ、ちゃんとしてる…それよりさぁ」

左近の言葉に、相変わらずのんびりとした口調で応えて、数馬は床を四つん這いになって左近に近付く。

「左近は、どこの城に決まったの?」

悪戯に耳元で囁かれた声。媚びた様な声音とは裏腹に、その目が少しも笑ってはいない。

「教えません…そう言う規則です」

煩わし気に数馬の顔を押し退けて、左近はそう切り捨てた。

「え〜…いいじゃない、私にだけ教えてよ」

尚もそう言って、でかい図体でじゃれついてくる数馬を、左近は慣れた仕草であしらった。

 

「駄目なものは駄目です…」

心底面倒臭そうにそう言って、逃げる様に数馬から距離を取った。

「もぅ〜…左近のいけず〜」

そう言って、左近との距離を確実に埋めようとする数馬。

嫌な予感に駆られて、本気で逃げの体制を整えようとした左近だったが、一瞬遅かった。

数馬が、左近目掛けて飛びかかって来たのだ。

 

「ぎゃぁっ」

「うっふふ」

左近の悲鳴と、楽しそうな数馬の声が重なった。

こうなると、左近の分は格段に悪くなる。

格闘技に関しては、数馬の方が何枚も上手で、頭脳派の左近は到底敵わない。身体の上にしっかりと圧し掛かられて、四肢の自由を奪われたら最後、左近に反撃する余地は言葉以外になくなる。

 

至近で…それこそ、睫毛の本数を数えられそうな距離で顔を覗きこまれて、居心地の悪い事この上ない左近は、悪あがきと知っていて、顔を背けて視線を反らした。

「左近…美人になったねぇ」

そんな左近をからかう様に、数馬が言った。

「何言ってんですか、…毎日見てて見飽きてるでしょう?」

視線を反らしたままで、左近が言い返す。彼は自分の顔の造形を、好ましく思っていない。知っていて、数馬はからかっているのだ。

「そんな事無いよ?…すっごいそそる…」

にやりと笑ってそう言って、数馬の唇が左近の頬に触れた。

「食べちゃいたいくらい」

ちゅっと触れた唇を、僅かに離してそう言った数馬の唇が、喋るたびに左近の肌を刺激する。

「…やめてくださいよ、…乱太郎たちに見られたら、面倒臭い」

左近は心底面倒臭そうにそう言って、溜息を吐く。

長い付き合いで、数馬のこういう類の悪戯には、随分慣れた。

彼は、スキンシップが過剰な類の人間で、この行為に意味など無い。単に、目の前に在ったから口付けた。その程度の浅い思惑。故に、左近以外の人間はそこに特別な感情があると思い違いをして、面倒臭い恋愛沙汰に発展する事が度々あった。

何度も戒めた左近の言葉に、数馬は全く耳を貸さなかったが、最終学年になった頃ようやくその悪癖と、その弊害の関連性に気付いた様で、左近以外の人間には極力しなくなっていた。

左近は分別がある人間だと、ようやく気付けたのだろう。

しかし、左近が安心したのも束の間で、今度は左近にのみこういう行為をする事で、二人が親密な関係だと勘違いする輩が多くなった。

実際、二人の関係は委員会の先輩後輩と言うには親密すぎたし、お互いに知らない事などほぼ無いと言って良い程に解り合っている。二人の間に在るのが、何物にも代えがたい絆である事は確かだが、それは恋愛感情などではなくて、家族愛に近い。

たったの一年ではあるが、同じ様に長い時間一緒に居る乱太郎や伏木蔵よりも、二人に根付いた絆は強い。勿論、二人とも同じ様に後輩を愛していたし、特別な絆を確信していたが、どうしたって埋められない一年の歳月が、後輩たちと自分たちの間に、見えない線を引いていた。

 

「またそんな事言って…気になるんなら、さっさと告白しちゃいなよ…乱太郎、取られちゃうよ?」

くすくすと笑って、数馬が左近の耳元に息を吹きかけた。

普段冷静で小憎たらしいこの後輩が、乱太郎の前でだけ冷静さを欠く事を知って久しい。

それとなく二人をくっつけようと画策した時期もあったが、結局は上手く行かなかった。

素直になれない左近は、最後の最後で一歩を踏み出せない。…じれったい事この上ない。

尤も、左近からしてみれば数馬のお節介は、本当にお節介でしか無かったのだが。

 

「……あんたが、邪魔しなかったらな」

虚勢を張っても見抜かれる事を知っている左近は、珍しく素直にそう言い返す。

左近の恋心を唯一知っている数馬。その存在が、邪魔かと問われたら、きっと左近は頷く事を躊躇う。叶わぬ恋に絶望し、泣きたくなった時、数馬がいつだって傍に居てくれた。

みっともなく泣いてしまっても、笑う事もせず只黙って傍に居てくれた。「頑張れ」と背中を押してくれた。それに…救われているのは事実だ。

 

「おや、素直だ」

珍しい左近の本音の返答に、嬉しそうに笑って数馬は左近の鼻をちょんと突いた。

「いつするの?」

それから、少しからかう様にそんな事を言う。楽しんで居るのは明らかだ。

「……あんたが、卒業したら」

反らしていた視線を、ようやく数馬に向けて、左近が言い放つ。

「そりゃあ楽しみだ、私…留年しようかな」

くすくすと笑って、左近に微笑みかける。その笑顔が、反則的に愛らしい。年上の男に、こんな形容…間違っていると百も承知だが、事実可愛らしいのだから仕方ない。

「馬鹿な事を…」

苦笑して、左近の視線が真っ直ぐ数馬に向いた。

要領が悪くて、不運憑きで、スキンシップ過剰で、ふと見せる表情が反則的に可愛くて、…飄々とこの学園で六年まで生き残った男。

出会って五年経った今でも、掴みどころのないこの人と、一緒に居られる時間はもう一年も無いのだ。

「……実習、ヘマしないでくださいよ」

真顔でそう言った左近。瞳に滲む心配は、本気だ。

「心配してくれるの?」

にっこりと笑って、数馬が左近の視線を真っ向から受け止めた。その瞳は、左近同様真剣なもの。

「出来る事なら、…一緒に行きたいくらいです」

そう言って、左近は確かめる様に数馬の頬に触れた。

いつも笑っている数馬。真剣な話の最中でも、茶化す様に場を和ませて、腹の内を人に見せたがらない。…左近にすら、見せてくれない。

泣きたい日もあるだろうに、長い付き合いで泣いた回数は左近の方が断然に多い。

信頼は時に、恋愛感情にすり替わる。

左近は過去に一度だけ、その想いを数馬に告げた事がある。しかし、数馬は首を縦には振ってくれなかった。

「左近の事は、大好きだよ…でも、僕では駄目だよ……左近を甘やかす事しか出来ない」

そう言って、ほんの少し見せた笑み。その時は、振られたショックで暫く立ち直る事も出来なかったけれど、今ならわかる。あの時、数馬は左近の気持ちが、恋に恋した勘違いだと気付いていたから、その先に実りが無い事を知っていた。聡い決断だったと、時を経て左近にも気付けた。

結局、自分たちは何処まで行っても先輩後輩。

「甘やかす事しかできない」

そう言った数馬の言葉は正しい。

あと一年、長く一緒に居られたら。

自分たちの歳の差が、逆だったなら、せめて、同い年だったなら、きっと左近は本気で数馬に恋をした。左近が後輩じゃなかったら、きっと数馬はちゃんと向き合ってくれたのだと……何故だか左近は確信している。そんな、たらればの妄想、現実主義の自分の口からは決して吐く事など叶わないけれど。

 

「だからさ、教えなよ…実習先」

左近の言葉に、数馬が話を元に戻す。

「…嫌です」

左近は笑った。

 

今でも左近は、数馬の事が大好きだ。

伏木蔵の事も、伊作の事も、好きだ。

けれどそのどれもが、乱太郎を想う気持ちとは決定的に、絶対的に、何かが違う。

 

「こんの、強情張り…ちゅーするよ」

そう言って、迫って来た数馬の顔。

左近はにっこりと笑って、ヘッドバッドを喰らわせたのだった。

出来る事ならこの人の、気憂を取り除いてあげられる存在になりたかったけど、もう二度と叶わないから、八つ当たり。

 

今でも好きだよ、馬鹿野郎。

だから、簡単に口付けないで。

ずっと好きでいたいから、心に波をたてないで。

 

 

 

 

「…やだ、左近…本当に来ちゃったの?」

実習先に赴いた左近が、門戸を潜った先で、女装した数馬にそう言われ、熱烈に歓迎されたのは、夏休みが始まって一週間後のことだった。



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